すこしdisり気味の記事になってしまうけれど。
僕は、シンプルでストレートかつ骨太な作品が好きだ。
前も同じようなことを書いたが改めてそれを叫びたくなった。
むしろ最近は行き過ぎて、それ以外を受け付けなくなってきているのかも知れない。
(とはいえ、シンプルだのストレートだの言ってエフェクト派をdisってるのではなく
作者にとっての最も伝えやすい形であるならそれがここでいうシンプル、ストレートなのだ)
ただ一言で表される感情を、ただ一言の言葉では収まりきらずに溢れてしまい
それが動画の形を成してしまった、というような作品は例外なく素晴らしいと思う。
何故ならそこには必ず物凄い熱量の情熱があるからだ。
情熱というファクターは、技術やセンスや愛や独自性やネタなどよりも
(少なくとも創作という分野においては)概念として一段だけ上にあるものだと思う。
どれも数値化できるものではないから証明はできないが感覚的に確信できる。
そんな動画をニコマスでも何度も見てきた。
アイドルマスターというゲームディスク中に出てくるPは一人しか居ないが
アイドルとの物語はモニタの外にいるP達の数だけ存在する。
そして不思議で面白い構造なことに、どのアイドルもそれぞれのPだけのものだ。
この動画で表されるただ一言の感情は、「ジゴPから」「ジゴPの伊織だけに」届くものなんだ。
ということを考えながらこの作品を見ていると、いわゆる”モニタの中に入ろうとする”
行為が途端にうすら寒い道化じみたもののように感じられる。
(表題で予防線を張ってたのはここに繋がるわけだ)
モニタの外に自分がいて、モニタの中にアイドルがいる、その構図の中でも
確かな結線はされているのに、それを不十分だと断じられた気分になってしまうのだ。
他のPを例に出して悪いが、OGOPはモニタの中に入れなかった。
だとしたらその壁は彼の限界を示すものなのだろうか?彼に何かが足りなかったのだろうか?
それは絶対に違う。
恐らくこれは真摯に春香を見つめた先にある最終結論であり、自己確認の作品だ。
モニタの外の現実にいないというネガティブな事実ではなく、
モニタの中の日常に生きているというポジティブな事実を彼は採択した。
もしここでネガティブな事実だけを結論としたのなら、もう動画を作ることもなかったように思う。
そこには確かにPとアイドルを結ぶ線が存在したのだ。
閑話休題。
僕はあまり技術や音楽的なことについて語る素養がなく今までそういう方面の感想は
避けてきたのだが、この作品は休符というか音の合間にぴたっと嵌るシンクロが魅力だ。
0:59の「真夏の」と「太陽が〜」の間の拍、1:21の「わたしを」と「Do you〜」の間の拍、
そして最初のサビ頭の数秒など枚挙に暇がない。
それにしても麦わら帽子と私服と祭典ステージの相性は抜群だなぁ。
以下画像貼り実験。
なにこの可愛さちょっとありえないんですけど。(ジゴP)



